1ページ目
1
雨雲に覆われ、薄暗い昼の空。ザアアア、という細い雨が王宮の空中庭園に降り注いでいる。
第6話
敗北の夜
王とサンドラは雨を避け、庭園の脇の屋内でテーブルを囲んでいる。
副都に向かう
汽車は?
今日の午後に…。
この後、駅に向かう
つもりです。
テーブルの上にはカップに入ったお茶と急須。
そうか……。
副都サミットは
この大陸で最も重要な
国際会議の一つだ。
我が国の顔として
国際社会の表舞台に
立つことになる…
君にとっては初の
機会だな。
2ページ目
2
向かい合って座っている王とサンドラ。テーブルの上のカップを手に取る王。
ホスト国として、
毅然とした態度を
崩さぬこと…
外国の連中に
臆する必要など
ないからな。
サンドラはどこか上の空で、俯きがちに遠くを見ている。
ええ…本当に。
責任重大……
ですね。
…………。
心配そうにサンドラの顔を見つめる王。
……浮かない
顔だね。
さすがに
不安…かな?
あっ…いっ、いえ。
そういうわけでは
ないんですが…。
王はつらそうにカップに視線を落とす。
私が一緒について
いってあげられたら
よいのだが。
副都は忌み地……
王家の者は足を
踏み入れることは
できない習わしでな。
すまない。
3ページ目
3
照れ臭く、申し訳ないような顔になるサンドラ。
すまない
だなんて、
そんな…。
大丈夫だ。
君ならきっと立派に
やり遂げられる。
王はニコニコと笑みを浮かべている。
なんせ君は私の
自慢の総理大臣
だからね。
屋内の窓から見る雨模様の空。
…お心遣い、
感謝いたします。
陛下。
王宮の階段を一人で降りていくサンドラ。
近付いてきたサンドラに気づき、横目で振り向くナオミ。
4ページ目
4
階段を降り終えナオミと合流しそのまま歩き続けるサンドラ。
駅に行くぞ。
はい。
二人はお互いに視線を合わさない。ナオミは気まずい表情を浮かべ、先頭を歩くサンドラの表情は硬く、感情は読み取れない。
5ページ目
5
ナオミが王都に戻ってきたときに通ったのと同じ、大きな駅舎の正門。中央の階段は貴賓客のために空けられ、到着した総理の馬車の両脇には多数の人だかりができている。
あれからまだ、
お互いの顔をまともに
見れていない。
群衆が近づかないように一列になってガードしている騎士たち。その隙間から、密集した人間や人猫が満面の笑顔でこちらに熱い視線を注いでいる。
サンドラの横で傘を差している副部長。背後でサンドラの様子を見ているナオミ。サンドラは先ほどまでの憂鬱さを微塵も見せず、政治家スマイルで支持者たちに向かって手を振りながら歩く。
サンドラの後ろ姿。ナオミからはサンドラの表情は伺えない。
6ページ目
6
駅のプラットフォーム。駅員に見送られながら列車に入っていくサンドラ。ナオミ、ベルプルがそれに続く。
それは望遠鏡から見た光景だった。駅の様子を何者かが遠くから監視している。
見つけたぞ、
総理大臣だ!
草木に身を隠したフードを被った二人組の人猫。
今、ちょうど
列車に
乗り込んでる!
列車番号は
見えるか?
望遠鏡を覗き続ける人猫の返答を聴きながら、背後のメガネをかけた人猫が手帳に文字を書く。
AT…092…
101号だ。
よし、メモした。
俺はこの情報を
伝えてくる。
7ページ目
7
プラットフォームからの景色。客車の屋根とプラットフォームの屋根の間から見える遠くの山の中腹で、一瞬何かがきらめく。
列車に乗り込む寸前、山の方に目をやるナオミ。
ん?
山を眺めるも、そこには何もない。
今何か…
……気のせいか。
列車にぞろぞろと乗り込んでいく警備部の新人たち。
列車内の通路。背後からナオミに話しかける副部長と、窓の外を見たまま振り向かずに答えるナオミ。
警備部長、
全員乗車完了
しました。
よし、
発車を
許可する。
8ページ目
8
ドドドド、と森の中を駆ける馬。またがっているのは先ほどのメガネを掛けた人猫だ。
馬が辿り着いたのは、山の中にぽつんとある建物。五角形で三、四階建て程度の高さの塔で、五つの面それぞれにはてっぺんの階にだけ大きな全面ガラスが付いている。一階部分は広く、地面と地続きで馬がそのまま入れるようになっている。
建物の中。馬を繋ぎ、フードを脱いだ人猫は事務員風のスーツを着ていた。
窓に囲まれた室内。そこには椅子に座った人猫が、机の上の書類の束に鉛筆を走らせながら、片手で巨大な樽のような形をした機械のレバーを操作している。疲れた様子のその人猫の背後からメガネが近づく。
お疲れ様
です!
おう、
ちょうどいい
ところにきた。
ちょっと
休憩してくるから
代わってくれ。
メガネの人猫が不気味な笑顔を浮かべる。
はい、
先輩。
9ページ目
9
もれる〜、と言いながら走り去っていく先輩。代わりに椅子に座るメガネの様子を、部屋の中に数人いる事務員は気にする様子がない。
スッ、とメモ帳を取り出すメガネ。
ガチャ、という音を立てて大きな樽のようなものの蓋のシャッターが開き、中から強烈な光が放たれる。樽とは信号灯だった。
ピカ、ピカ、ピカ、と、規則正しく光る信号灯。その光は窓の外に向けられている。
そこは山のてっぺんだった。塔からは引き続き、ピカピカと信号灯の眩い光。
10ページ目
10
副都方面の風景。ポッポーと汽笛を鳴らしながら線路の上を走る角ばった形の蒸気機関車と数両の客車。街を背後に、汽車の行く方向には山や森が広がっている。
さようなら、
人間の総理大臣。
列車の中。大勢の人猫の騎士たちがボックスシートにぎゅう詰めになり、にこやかに談笑している。
騎士ばかりの車両の通路を、無表情にあたりを見渡しながら進んでいくナオミ。
11ページ目
11
列車内のコンパートメントが並ぶ車両の廊下。数人の騎士が立ったまま警備をしている。ナオミは一つの扉に向かって進む。
ガラッと扉を開けるナオミ。
広々としたコンパートメントの中でポツンとシートに腰掛けているサンドラがナオミに振り向く。
車内に異常は
ありません
でした、総理。
無表情のまま視線を落とすサンドラ。
そ、そうか。
対面のシートに腰を降ろすナオミ。
………。
…副都へは
5時間ほどで
到着します。
今夜は
副都総督との
ご会食の予定が。
その後、明日から
始まるサミットに
備えて……
12ページ目
12
手を上げて静止のポーズをし、うんざりした顔になるサンドラ。
予定ぐらい
分かってる。
何度も説明して
くれただろ。
そ、そう
ですね。
向かい合って座ったままの二人。コンパートメント内に沈黙が流れる。
…………。
居心地の悪そうな顔を浮かべて視線を合わせない二人。
ああ、
気まずいな
……。
速度を上げて森の中を進んでいく列車。
……早く副都に
着かないだろうか。
13ページ目
13
コンパートメント内で時間を潰している二人。
ナオミはどこから持ってきたのか、小さな文庫本のようなものを読んでいる。
サンドラは茶を飲みながら窓の外の風景を眺めている。
誰にともなく呟くサンドラに反応したナオミが顔を上げる。
……田畑
ばかりだな。
はあ?
外を見たままのナオミの横顔。その表情はどこか憂いを帯びている。
王都のような
都市部は
ほんの僅かだ。
国土の大半は
森や荒野…
その合間合間に
農村が広がって
いる。
14ページ目
14
流れていく景色は雨の中でぼやけている。
こうして通り過ぎるだけの
景色の中にも、
無数の名も無き人々がいて…
多くは教育の機会を得られず、
読み書きすらできない者もいる。
上目遣いのナオミ。
…私は生まれも育ちも
王都でしたし、普通に
学校にも行ったので、
想像しづらい世界です。
確か、
国中に学校を作る…
というのが総理の
政策なんでしたっけ。
目を伏せているサンドラ。
そうだ。
なぜ学校を
作りたいん
ですか?
細い目で遠くを見ているサンドラ。
人々に知識を
授けられるからだ。
コンパートメントから漏れるサンドラの台詞が、外に立っていた見張りの騎士の耳に入る。それはあのマルコの飲み仲間の白い人猫だった。
そして知識は
次の知識を得る
力になる。
15ページ目
15
無表情のまま総理の話を聞いている人猫。
無知…とは、暗闇の中で
苦痛にもがくようなものだ。
知らずに互いを傷付けあう。
知識を授けることで
救える人々もいる。
脇を向いたままのサンドラに対し、サンドラを真っ直ぐに見据えているナオミ。
……なぜ、
人々を救いたい
んですか?
虚を突かれたサンドラは戸惑った表情でナオミの方を振り向く。
えっ、
なぜ…?
なぜって、
それは……
困った顔で再び窓の外に視線を向けるサンドラ。徐々に暗くなってきた背景をバックに、窓ガラスにはサンドラの顔が反射している。
………。
日が暮れつつある空。
二人して窓の外を見ている。
……だいぶ
薄暗くなって
きたな。
え、ええ。
もうすぐ
副…
16ページ目
16
ドオン、と突如耳を擘く轟音が鳴り、列車が大きく揺れ、進行方向から強烈な光が差し込む。
慌てて窓から先頭側を見るナオミ。
18ページ目
18
ぼやけた視界。
逆光の中。こちらを見ているグーベンの横顔。
大きく見開かれたナオミの目。
ナオミを庇おうと手を伸ばしたグーベン。その後ろでナオミは驚いている。
ナオミ!
再びぼやけた視界。
ナオミ!
起きろ!
徐々に明るくなる。
起きろ!
19ページ目
19
目を開くと、目の前に泣きじゃくりながらこちらを見下ろしているサンドラの顔のアップ。
おい、
起きろ!
やつれた表情でそれを見上げるナオミ。
んん…
総理…?
ゆっくりと上体を起こすナオミ。そこはコンパートメントの中だったが、向きが90度横になっている。ナオミは横になった窓ガラスの上に寝ていた。
ああ、良かった。
生きてたか。
これは…
列車が横転
したのか。
二人して立ち上がる。ナオミはサンドラをそっと抱き抱える。
お怪我は
ありません
でしたか。
平気だ。
それより、
外がなんだか
騒がしいんだ。
20ページ目
20
頭上、コンパートメントのドアの外から、数人の人猫の騎士がこちらを覗き込む。
総理!
警備部長!
ご無事ですか!
抱き合ったまま彼らを見上げるナオミとサンドラ。
副部長か⁉︎
人猫たちの手が、ナオミの手を引っ張り上げる。
一体何が
起こった⁉︎
わ、分かりません!
突然爆発が起きて…
と、とにかく早く外へ!
大変です!
人猫たちに引かれて窓から列車の外に出たナオミ。周囲の状況に、険しい顔で目を見開く。
‼︎
21ページ目
21
ワーワーワーと大勢の雄叫び。線路から大きく脱線し、夜の野原の上でバラバラにひっくり返っている列車。燃え盛る機関車。人猫の騎士たちは斧を抜き、炎の光を背中に闇の中から現れた魔王軍と戦っている。横倒しになった一等車の窓から外に這い出たナオミや副部長たちは、列車の眼下で繰り広げられている乱戦模様に目を見張る。
我らの周囲に
魔物が…‼︎
魔物の大群が
押し寄せて
きています‼︎
22ページ目
22
犬型の魔物が剣を片手に列車によじ登り、ナオミたちの前に現れる。よろめくサンドラ、それを支えようとするナオミ。
魔王軍‼︎
なぜこんな
ところに…
カシャッ、と剣を抜く人猫の騎士の手。
ガーン、と大きな音を立ててぶつかり合う剣と剣。騎士は魔物の攻撃からナオミとサンドラを庇うように立ち塞がる。
副部長!
23ページ目
23
剣を交わしながら叫ぶ副部長。
警備部長!
ここは我々が
食い止めます!
総理を連れて
お逃げください!
後ろで戸惑うナオミ。尚も叫ぶ副部長。
だが…っ!
行って‼︎
ガタ、と物音。さらに数名の魔王軍の兵が列車の上に登ってきた。
悔しそうに歯を食いしばるナオミ。
くっ‼︎
列車の上はいつのまにか乱戦状態だった。ナオミとサンドラは、魔物たちが来たのとは反対側から飛び降りる。
飛べ‼︎
24ページ目
24
ドタ、と着地と同時に地面に突っ伏して転ぶサンドラ。後ろ髪を結っていたリボンが衝撃で緩む。
起き上がるサンドラ。リボンがスル、と解けて落ちる。
総理、
走って‼︎
列車の上で戦っている騎士たちを尻目に駆け出すナオミとサンドラ。お互いに手を繋ごうと腕を伸ばす。
前方を走るナオミの指に、サンドラの手が触れる。
26ページ目
26
夜の森。真っ黒な空には四日月が浮かび、木々はたき火の光に僅かに照らされている。
鬱蒼と茂る森の中。少し開けた空間で小さなたき火を囲んでいるナオミとサンドラ。ナオミは炎を背に棒立ちになり、サンドラは倒木に腰掛けながら肩を震わせている。
白い息を吐き、不安そうにたき火を見つめるサンドラ。
大丈夫なのか、
たき火などして。
追っ手に見つかり
でもしたら…
サンドラに背を向けたまま語るナオミ。
かなりの距離を
走りましたから、
すぐには……
それより
暖を取らねば、
凍死の危険が
あります。
ナオミの横顔。その表情は同じく不安に曇っている。
……はあ、
なぜこんな
ことに…。
──部下たちを
置き去りにして
しまった。
27ページ目
27
ナオミの背後で燃え続けているたき火。
今まで前線に
出たこともない
あいつらを……。
戦いは
どうなった
だろうか?
今からでも
助けに戻る
べきか……
ゲホゲホ、と咳をするサンドラ。それをそっと振り向くナオミ。
…いやいや、
冷静になれ。
私が優先
すべきなのは
総理の命…
苦渋の表情で目をつぶるナオミ。
今は総理を
守ることだけを
考えよう……。
場面は変わり、再び列車爆破現場。地面に転がったポップコーン。
今だ立ち登る煙。何者かの黒い手が硬く握りしめたリボンが、熱風に吹かれてゆらめく。
28ページ目
28
リボンを握っているのは人間でも人猫でもない、長身で細身の人物だ。炎を象った文様の服は裾が長く、シルエットは騎士のものに似ている。仁王立ちで燃え盛る列車を眺めるその人物に、後ろから声が掛かる。
将軍閣下。
ご報告
申し上げます。
将軍と呼ばれた人物の背後に現れたスライムが、頭をもたげ、ない体でお辞儀のような動きをする。
付近を捜索
しましたが、
人間の宰相の姿は
見えません。
将軍は振り返らず、手のリボンをさらに強く握りしめる。
捜索範囲を
広げるように
伝えろ。
必ず宰相を
見つけ出して
殺せ。
ははっ。
将軍が手を開き、リボンが風になびくのと同時に手が光り輝き始める。どこからともなくリボンの周囲に火花が散り、パチパチと音を立て始める。
ふん…
逃げ足だけは
速いやつだ。
29ページ目
29
将軍は頭部は小さく丸く、髪の毛は生えていない。ガラスのように透明で、頭の中に炎が燃えたぎっている。ナイフで切ったような細い目が光る。手が光り輝き、そこからボオッと火が灯り、リボンが燃えて散り散りに消える。
だが時間の
問題だ。
この私、魔王軍大将
フォブルーリスの
手からは逃れられぬ。
絵のないコマ
……それにしても、
魔王軍はどうやって
私たちの列車を
特定したんでしょう?
再び森の中。木に腰掛けうついむいたままのサンドラの隣でナオミが立ったまま話している。
車両は一般のもの…
出発時刻も直前まで
決めませんでした。
魔物が先回りして
列車を知らせることは
不可能なはずです。
30ページ目
30
目を瞑ったまま答えるサンドラ。
…政府専用の
長距離通信網だ。
驚いて振り返るナオミ。サンドラはたき火を見据えたまま話を続ける。
えっ?
鉄道より速く
情報を伝達する手段は
それしかない。
国内各所に点在する
通信基地が
回光機を使って信号を
中継していくものだ。
通信網の図解。あちこちにある通信塔の絵が互いに線で結ばれている。
1時間もあれば
国の端から端まで
情報が伝わる。
遠方の魔王軍に
列車を伝えることなど、
造作もないだろうな。
協力者が
いれば、だが。
困惑するナオミ。
政府関係者の
中にいるって
言うんですか?
魔王軍に
総理を売った
やつが。
そんな…
あり得ま
せんよ!
ナオミの言葉にも無表情のままのサンドラ。
だってそれじゃあ、
これは暗殺ってことに
なるじゃないですか‼︎
31ページ目
31
拳を握るナオミ。
確かに、総理は
政界に敵が多いかも
しれませんが…!
でも悪いことなんて
何もしてないのに、
意見が合わないってだけで
殺そうとするなんて…
ふふっ。
サンドラのタガが外れたような笑い顔。
ふふふ、
あはははっ。
ゲホゲホ。
サンドラの様子を覗き込むナオミ。うずくまるサンドラ。
…総理?
悪いことなんて
何も…か。
キョトンとしたナオミに対し、座ったまま笑みを浮かべて話し続けるサンドラ。
お前には私が
そう見えるのか。
ただの無害で、
無垢な善人に?
そんなやつに
できたと思うか?
32ページ目
32
やつれた目を向け、物悲しい皮肉めいた笑みを浮かべてみせるサンドラ。
この年で党を率い、
人間でありながら
国の頂点に立つことが。
もちろん
汚いことだって
数えきれないくらい
してきたさ。
他人を蹴落とし、
自分が上り詰める
ために。
ナオミはサンドラを見つめたまま押し黙っている。
………。
今のこの状況を
招いたのは
私なんだよ。
どうだ、
がっかりしたか?
自分が守ってきた
相手がただの
悪人だと知って。
33ページ目
33
立ち尽くしたままのナオミ。座ったままのサンドラ。
ずっと……
好き勝手ばかり
してきた。
…人猫たちを
獣物だと罵る資格
などないな…。
本当の獣物は
私の方だ。
自分の腕を抱えて震え出すサンドラ。
…うう、寒い。
息が苦しい。
ナオミが着ていたジャケットが、サンドラに肩の上から掛けられている。サンドラの震えは落ち着いたが、声もなく涙を流している。
ジャケットを脱いでシャツとチョッキだけになったナオミ。たき火の前に跪いて薪を足し、火を大きくしている。
今は寒さで
気がめいって
ますから。
少しでも身体を
温めないと…
34ページ目
34
自分に掛けられたナオミのジャケットの内側をまさぐるサンドラの手。
……ん?
なんだ、何か
内ポケットに
重いものが…
ジャケットの内側から何かを引っ張り出す。
ナオミが驚き、振り返る。サンドラの手には、以前官邸で自殺した、あの人猫の騎士が持っていた小刀が握られていた。
あっ…
これは…
「花嫁の守り刀」
じゃないか。
少し呆れた顔で笑みを浮かべるサンドラ。
お前いい年して
こんなもの
持ち歩いてる
のか。
申し訳なさそうな、気まずそうな表情で視線を落とすナオミ。
あ、いや…
それは……。
………。
35ページ目
35
シャッと小刀をさやから引き抜くサンドラ。
魔を退け、持ち主を
守るようにとの願いが
込められた小刀…
年頃となった娘に
母親が買い与え、
婚前式では枕元に置き、
結婚式でも使う…。
近づくナオミ。小刀を見つめるサンドラ。
……懐かしいな。
自分の若い頃を
思い出す。
倒木の、サンドラのすぐ隣に腰を下ろすナオミ。
総理にも
あったん
ですか?
守り刀を
持たされて
いた時期が。
ああ、
あったよ。
ナオミの視線をよそに、遠い目で刀身を見つめ続けているサンドラ。
……私が母親にこれを
買ってもらったのは、
まだ学校に通っていた
ときだったな。
回想。短い髪の人間の後ろ姿。
36ページ目
36
若い人間の横顔。ウェーブのかかった髪は肩までの長さしかなく、学校の制服を着ている。十代後半のサンドラの姿だ。
同じ制服を着た何人もの人間が同じ方向に歩いている。サンドラもそのうちの一人だ。サンドラが笑いかけ、目の前にいた一人の人間が振り返る。
あの頃、私には
仲のいい級友がいた。
サンドラから見た級友。こちらに向かって笑っている。
眼鏡を掛けていて、
明るい金髪を
お下げにして…
…笑顔がとても
かわいい子だった。
37ページ目
37
先端を軽く小突き合わされる、2本の小刀のさや。金ピカの金属光沢が美しく、細かい唐草模様が凝った意匠で、高級そうなそのさやは2つとも瓜二つだが、先端に刻まれた家紋だけが異なっている。。
私たちはいつも
一緒で、
肩を並べて笑顔を見合わせ、小刀を突き出してる二人。
二人とも全く同じ
守り刀を持っていた。
現在。ナオミの持っていた小刀を懐かしそうな、あるいは悔しそうな表情で見つめているサンドラ。
お互いの親が
偶然、同じ刀匠から
同じ商品を買ってた…
ってだけなんだけどな。
でも、その子と
お揃いなのが
とても嬉しくて……
少し誇らしかった。
38ページ目
38
パチン、と手に持った小刀をさやに納めるサンドラ。
……愚かなことだ。
私は世の中のことを
何も知らなかった。
これを持たされた
ことの意味もな。
ナオミはつらそうな目でたき火を見ている。
………好き、
だったんですね。
その子が。
ああ。
回想。桜の花びらが舞うのをぼうっと眺めているサンドラ。
他人を好きになったのは、
初めてだったと思う。
本人にはずっと打ち明け
られなかったが…
背後には桜の木。想い人が近づいてきたことに気づいたサンドラの顔が、振り向きざまにパッと明るくなる。
卒業を間近に
控えたある日の
ことだった。
39ページ目
39
ショックを受けた顔のサンドラと、その目の前で満面の笑みを浮かべている級友。
婚約したの。
現在。信じられないといった顔のナオミ。
自分の守り刀を
大事そうに抱えながら
そう告げてきたよ。
回想。両手で胸に抱えられた小刀が光る。
40ページ目
40
サンドラの口元のアップ。納得のいかない感情が滲み出る。
「おめでとう」
……って、
一言言ってやれたら
よかったんだけどな。
絵のないコマ
せめて、何も言わずに
見送るだけだったら……
今でも友人でいられたかも
しれないが。
立ち去ろうとする級友の腕を後ろから掴むサンドラの手。
顔を真っ赤にして何かを訴えるサンドラ。キョトンとしたまま振り返る級友。
級友の目元。驚き、サンドラの話をよく理解していない。
41ページ目
41
泣きながら何かを訴えているサンドラ。
目を瞑り、涙が頬を伝う。
何年も隠していた気持ちを
勢いに任せて全部吐き出しながら、
ああ、これで今までの友情も
全部なかったことになってしまった、
と、そんなことを考えていた。
頭をもたげて泣いているサンドラ。
42ページ目
42
級友の口元のアップ。サンドラを見下ろしながら、何かを吐き捨てるように言う。
“ ━━━━━━ 。”
現在。トラウマが蘇り、目を見開き、恐ろしいものを見たかのような顔になるサンドラ。
………。
一瞬ののち、再び力を抜いて目を半目にする。
……あの時、あの子は
最後になんと言っていた
のだったか……。
……もう覚えて
いないが…。
絵のないコマ
去り際にあの子が見せた顔は、
軽蔑と恐怖に歪んでいた。
それきり二度と会っていない。
回想。サンドラの手元のアップ。コト、という音を立ててテーブルに置かれるサンドラの守り刀。
43ページ目
43
薄暗い寝室。天蓋付きの大きなベッドに枕は二つ並べられ、ナイトガウン姿のサンドラは不安そうにちょこんとベッドの端に腰掛けながらサイドテーブルに置いた自分の小刀を見つめている。
やがて、私にも
結婚相手の人猫が
宛てがわれる日が
やってきた。
相手は有名な
大物政治家の
息子で……
サンドラの横に、同じくナイトガウンの人猫がドスっと腰を下ろす。
私にとっても
古い友人だったが……。
つらそうに目を背けるサンドラ。その人猫の正体は、後にサンドラが総理大臣になったときの官房長官だった。
僕は……
君のことが好きだよ、
サンドラ。
44ページ目
44
笑顔でサンドラに語りかける後の官房長官。
僕こそ君の
一番の理解者だと
思うんだ。
君の趣味のこと
だって気にしない。
腕の傷のこともね。
その猫の手が近づき、そっとサンドラの膝の上で緊張していた手に触れる。
きっと僕たち…
いい夫婦に
なれるよ。
サンドラの口元のアップ。苦しさとおぞましさがこみあげ、思わず口を硬く結ぶ。
彼の太くて
毛むくじゃらの
腕に触れられ…
今からこの人猫に
抱かれるのだ
そう思ったら、
背筋が凍るような
気分になった。
バッ、と勢いよく自分の手を引くサンドラ。
唖然とした花婿。サンドラはベッドから立ち上がり、数歩離れる。サンドラは触れられた手をもう片方の手でさすりながら無理矢理笑顔を作っている。
ご、ごめんな、
ラリー。
や、やっぱり
私には無理だ。
45ページ目
45
サンドラの後ろ姿と、その背後にいるラリー。
彼には申し訳ないが、
この婚前式は失敗だった
ことにしてもらおう…。
そう考えていた
矢先だった。
音もなく立ち上がり、サンドラの背後から近づき、腕を開くラリー。
そのままバッ、と掴みかかる。首元を太い腕で抑えられ、顔に恐怖が貼り付くサンドラ。
いやだ‼︎
いやだ‼︎
ひっ‼︎
46ページ目
46
サンドラを抱えたままベッドに倒れ込むラリー。
ずっとずっと…
君のことが好き
だったんだ‼︎
恐怖に目を見開き、ラリーの方を見ようとみじろぎするサンドラ。
ラ、ラリー⁉︎
なのに
今更やめる
だなんて…‼︎
後ろから抱きつくラリー。サンドラは顔を汗と涙でぐちゃぐちゃにしながら、じたばたと手を伸ばす。
サンドラ…!
サンドラ……!
ああ、君のことを
愛してる!
だ、誰か…‼︎
誰か助けて‼︎
サンドラの手が何かに触れ、カタッと音を立てる。それは先ほどテーブルの上に置いた小刀だ。
47ページ目
47
ぎゃあ!!という悲鳴が夜の田舎屋敷に鳴り響く。
バン、と勢いよく扉が開き、部屋の外に待機していた人猫が入ってくる。
どうした‼︎
何があった⁉︎
ベッドの上で腕を抱えてうずくまるラリー。
あーっ、
痛いー!
痛いよー!
死んじゃ
うー!
ベッドの周りに集まる数人の人猫。サンドラはサイドテーブルの陰で、むき身の小刀を抱えたまま床に座り込み、汗びっしょりではあはあと息をしている。
48ページ目
48
現在。信じられない顔でサンドラの方を見やるナオミ。
あの人が昔
そんなこと
を…?
私の守り刀は
あいつの腕を
かすめた。
回想。大騒ぎとなった数人の背広を着た人猫たちに連れられて明るい部屋に出ていくラリー。
ほんのかすり傷さ。
ほとんど出血も
していなかった。
それでも向こうの
親は大事な息子を
傷物にされたと
カンカンでな。
去り際にサンドラの方を憎々しげに睨むラリーの親族たち。その中でラリーだけが心配そうな顔をしている。
夜の王都の街。雨が降り頻るなか、着の身着のままで誰もいない通りを駆けていくサンドラ。
元より家格は
向こうが遥かに上…
うちは一方的に
責められ。
私は自分の
家族に
責められ。
ついには
家にいられなく
なった。
現在。感極まった顔のナオミをよそに、サンドラは目を瞑ったまま笑みを浮かべている。
皮肉なものだ、
身を守るための
小刀なのにな。
それを実際に
使った私は
自分の身を滅ぼす
羽目になった。
49ページ目
49
手に持っていた小刀を元の内ポケットにしまうサンドラ。
その後、王都を
さまよっていたところを
とある議員に拾われて…
秘書になったんだ。
その人の後を継いで
私も政治家に……。
………………
………………。
たき火に照らされているサンドラの後ろ姿。
…………あーあ。
私の人生って
なんだったんだろ。
泣きそうな顔を赤らめているナオミ。
うつむいたままのサンドラの頭部。
人に受け入れられる
ことも、
人を受け入れることも
できなくて…
幸せになることが
許されないなら、
せめて人々の役に
立つことをしようと
……。
でも結局仕事ですら
敵を増やしてばかりで…
こうして命を狙われる
までになった…。
50ページ目
50
またボロボロと涙を流すサンドラ。
私一人が死ねば
良かったのに…
大勢の部下を
巻き添えにして
しまった…。
秘書に騎士たち…
…みんな、今頃、
もう……。
俯いたままのサンドラの背中にナオミはそっと腕を回し、さらに反対側の手を顔に近づける。
私なんて、
初めから生まれて
こなければ……
その手で頬に触れながらサンドラの泣き顔を持ち上げる。
51ページ目
51
サンドラが気付くと、うっとりしたナオミの顔がほんの数センチの距離まで迫っている。
慌ててナオミの身体を押しのけるサンドラ。
やめろ‼︎
同情の
つもりか‼︎
ナオミは抵抗しないが、尚も真っ赤な顔で、目に涙を貯めたままサンドラの顔を見ている。
……。
…分かんない。
………けど…。
52ページ目
52
負けん気の強いサンドラの悔しそうな赤ら顔が、じっとナオミを見つめる。
…………。
サンドラはナオミに唇を重ねる。身を寄せ会う二人の前で、たき火の炎が燃えている。
53ページ目
53
お互いの頭を両手で掴み、激しくキスする二人。ん、ふ、とサンドラの息が漏れる。
一瞬唇を離し、見つめ合う。はあ、と息をする。二人の顔は真っ赤だ。
サンドラはナオミの肩と頭に腕を回す。二人はさらに激しく唇を重ね合う。
54ページ目
54
夜空の付きは明るい。ズルッ、ドサッ、という音が静かな森に鳴り響く。
ナオミがサンドラに覆い被さるような形で二人は地面に倒れ込み、口付けを交わしながら抱き合う。下敷きになったナオミのジャケットから小刀が覗く。
55ページ目
55
はあ、はあと漏れる息遣い。うっとりとした顔でナオミを見上げるサンドラ。
ナオミ…。
それを見下ろすナオミ。少し迷いを見せ、
そして照れながらその言葉を口にする。
……サンドラ。
向かい合った二人の顔は笑っている。
サンドラ。
ナオミ。
56ページ目
56
静かな夜の森の中、真っ暗な空に浮かんだ明るい四日月。
TO BE CONTINUED...